グレッグ・イーガン『祈りの海』感想

グレッグ・イーガン『祈りの海』(原題:Oceanic and Other Stories)読み終わった。しばらくぶりの更新ですが、サボってたわけではなく読むのに時間がかかったのと、読む時間が取れなかったのが原因です。

本作はアイデンティティーをテーマにしたような短編が11編収録されています。原題と書きましたが日本独自に編纂した短編集です。グレッグ・イーガンらしいハードなSFが楽しめます。

貸金庫(原題:The Safe-Deposit Box)

朝、目が覚めると必ず別人に成り代わっている主人公が、精神医学研究所に勤める職員の宿主(ホスト)になったことをきっかけに自己の存在を問いかける。
自分とは何かというのが直截的に問われている短篇。一足飛びに結論にたどり着いても良いところですが、しっかり統計的に分析しているところがハードSFらしく、ファンタジーな設定にも一種のリアリティを与えています。

キューティ(原題:The Cutie)

子供が欲しいが妻に反対されて、満たされない男が4歳までに死ぬことをプログラミングされた子供キューティを買うが、キューティが4歳に近づくにつれてプログラムに異常が見られるようになり…
どこまでが人間で、どこまでが人間でないかという線引きを問いかける短編。現実でも中絶に対する賛成反対で議論になることがよくあります。技術的には現在の科学で実行できそうなのがまた怖いですね。

ぼくになることを(原題:Learning to be Me)

頭の中に宝石を埋め込んで自分のバックアップを保存させ、衰えたときにバックアップから自分をリカバリーする世界で、「ぼく」はリカバリーを受けるのかを思い悩む…
クローン人間に全ての記憶を注ぎ込んだら自分になるか?という問題がありますが、それを物語にしたような形です。本作では宝石が記憶を観測して模倣することと、真の自分の考えを宝石の方に合わせていることの差は何かという更に根源的なところにまで問題にしているのが面白いです。

繭(原題:Cocoon

胎児を有害物質から保護する「繭」と呼ばれる物質を開発している研究所が爆破された。その爆破の動機と犯人を探偵が追及する。
ミステリーに近いような短編です。二転三転する結末や意外な動機などミステリのエッセンスも堪能できますが、社会的な問題にまで設定を敷衍させているのが考えさせられます。

百光年ダイアリー(原題:The Hundred Light-Year Diary)

時間逆転銀河から未来の日記が送られてくる。未来の日記は「ぼく」が時間逆転銀河に送り続けているものであるが、日記に書かれていない出来事が起きてしまう。
歴史は勝者の歴史と言われることがありますが、未来も勝者の都合のいい未来なのでしょうか?浮気という卑近な例だけで終わることなく世界情勢に繋げているところが示唆的で良かったです。

誘拐(原題:A Kidnapping)

仕事中に妻を誘拐したとテレビ電話が掛かってきた。その姿は妻の姿そっくりだったが、家に帰ると妻は誘拐されていなかった。その妻の姿はCGだろうが、ここまでそっくりなものをどうやって作ったのか…
面白いです。「わたしたちに知ることができるのは、自分の脳の中にいる、おたがいの一部分でしかないんだ」というのは至言ですね。恋愛というのものは互いのことを好きでいるつもりでも結局は自分のイメージの彼女が好きなだけというのは避けられないものです。その点で言えば実際に好きな人と結婚するのとアイドルに片想いするのは大差がないのではないでしょうか。

放浪者の軌道(原題:Unstable Orbits in the Space of Lies)

メルトダウンによって、あらゆる思想が自分の頭の中に流れ込むようになった。そのとき人類は、同じ思想のもので固まるようになる。それをアトラクタと呼び、主人公とその仲間は、どのアトラクタにも所属することなく、隙間をぬって生活しているが…
少し設定が難しい短編だが、どんな思想に侵されていないように振る舞ってシニカルに決め込んでいるやつも結局は思想に侵されているんだと痛快に指摘しています。東浩紀あたりに読ませてやりたい。

ミトコンドリア・イヴ(原題:Mitochondrial Eve)

人類の女系の起源イヴを探し求める宗教団体と、男系の起源アダムを求める宗教団体の、人類起源戦争に巻き込まれた研究者は、どちらも無意味であることを指摘する。
中の登場人物はクソ真面目なんでしょうが、側から見ると馬鹿らしくてコメディーチックです。Einstein–Podolsky–Rosen相関(ERP相関)を人類の起源探索に使用するという発想が非凡です。

無限の暗殺者(原題:The Infinite Assassin

ドラッグSを使用することでパラレルワールドへと旅行できるようになった世界。ドラッグSは禁止されるが、中毒者が過剰に使用することで「渦」が生じ、並行世界を流れ、世界の崩壊を招く恐れがある。主人公は、その「渦」を止める仕事に従事していたが、今回の渦は止めることができない…
SFによくあるパラレルワールドがテーマの物語ですが、その並行世界で本当の自分はどれか自問するのが印象的です。この設定でカントールの塵を持ち出してくるのが素晴らしい。

イェユーカ(原題:Yeyuka)

ウガンダで原因不明のウィルスであるイェユーカが猛威を振るっており、その治療に向かうために主人公はウガンダへと向かう。そこで治療法を知っている一人の少女と出会い…
現代の医療格差問題も浮き彫りにしている短編。最後に主人公が騙されるのが気になるものの、ウガンダの人たちが快方に向かっていくのを願わずにはいれません。

祈りの海(原題:Oceanic)

二万年前、惑星コブナントに地球から移住してきた人類は、聖ベアトリスを信仰する宗教社会を築いていた。幼い頃、海中で神秘体験をし、ベアトリスの信者となった主人公は、大学での微生物研究を通して惑星コブナントの真実に気づいていく。
SFミステリらしい短編です。解決が意外性があり非常に鮮やかで、皮肉的です。それに加えて人がカルト宗教にハマっていく過程や、その洗脳から解けていく様子も上手く書けていると思います。

二万年前に惑星コブナントに移住し、聖ベアトリスを信奉する社会を築いた人類の子孫たち。そこで微小生物の研究を始めた敬虔な信者マーティンが知った真実とは?ヒューゴー賞ローカス賞を受賞した表題作、バックアップ用の宝石を頭のなかに持った人類の姿を描いた「ぼくになることを」ほか、遙かな未来世界や、仮想現実における人間の意志の可能性を描く作品まで、多彩な魅力あふれる11篇を収録した日本版オリジナル短篇集。

祈りの海 (ハヤカワ文庫SF)

祈りの海 (ハヤカワ文庫SF)