井上真偽『恋と禁忌の述語論理』ネタバレ感想・解説 - 記号論理学をテーマにした本格理系ミステリー

井上真偽『恋と禁忌の述語論理(プレディケット)』読み終わった。

『その可能性はすでに考えた』の井上真偽のメフィスト賞受賞デビュー作で、今回文庫化になった。本書は、数理論理学(記号論理学)をテーマにした本格ミステリである。いやテーマにしたという言葉は軽すぎるかもしれない。記号論理学の参考書と本格ミステリが合体したものとも形容できるほど、ガッツリと真正面から記号論理学に取り組んでいる

記号論理学をテーマにした本格ミステリは例えば古野まほろの『臨床真実士ユイカの論理』シリーズが思い浮かぶ。それよりも本書の方が本格的である。古野まほろと井上真偽と同じ大学で、『記号論理学』の授業を単位が取りやすいらしいからという理由で選択し、どこが簡単なんじゃボケと悪態をつきながら、ギリギリ可を取った落ちこぼれが、感想と一部解説を書きたいと思う。間違ってても責任はとらないので悪しからず。

本書全体に関して率直に言えば、記号論理学を謎解きに使用する必要はあまりない。一般的なミステリーのロジックで解かれるので、記号論理学の知識も読むのには必要ない。では、なぜ記号論理学をテーマにしているかと言えば、賞レースにあって他書との差別化という即物的な意味はもちろんあるだろうが、本格ミステリーにおける衒学趣味を表現したものでもあるだろう。

本格ミステリーの作者は大抵文系だから、衒学趣味と言っても歴史や芸術、文学などが多く、理系は大抵、量子力学相対性理論の初歩くらいなもんで多様性がない。そこで記号論理学を主軸に置いたミステリーはそれだけでも理系の読者にとっては嬉しい。井上真偽は、これ以降『理系ミステリー』を書いてないが、ぜひ他にもたくさん書いて欲しい。理系が選民思想的に楽しめる本格ミステリーを読んでみたい*1

スターアニスと命題論理
ここでは動機論から犯人を探る藍前あやめという名探偵の推理を記号論理学で硯がひっくり返す。推理自体は分かりやすい。明らかに変だなと思うセリフが伏線になっていて、読んだ瞬間に違和感に気付く。

記号論理学の部分に関して。まず説明が割愛されている選言標準形というのは、簡単に言えば「かつ」と「または」のみを使った式で、例えば「AならばB(A ⇒ B)」は「AでないまたはB(¬A ∨ B)」に書き換えられる。これが同じであることは理解しにくいが、「AならばB」は「AかつBでない、ということはない」に書き換えると分かりやすい。前提が偽であれば、結論がなんであっても真になることを意味していて『臨床真実士ユイカの論理』でも説明されている。

硯の自然演繹におけるメモは文中にもある通り、A7とA8が真であることは自明ではない。またこの論理は分かりにくい気がする。¬導入を使って「子供の頃外に取りに行かされていない」を導く方が分かりやすいのではないかと思う。

クロスノットと述語論理
丁寧に時系列推移が書かれているので、入れ替わりの可能性には誰しもが気付くのではないか。中尊寺先輩の論理も日笠シェフが中川さんのネクタイに気付かないというのが読んでる途中に引っ掛かりを覚えるだろう。

記号論理学の部分では、『ネクタイをつけていたのは被害者ではない』という文には『犯行後に』という文が抜けている。『犯行後にネクタイをつけているならば被害者ではない』の対偶は『被害者ならば犯行後にネクタイをつけていない』なので古典論理でも成立している。直観主義論理を持ち出すまでもない。

途中に全称量化子と存在量化子という言葉の説明が割愛されているが、簡単に言うと、「Hibari is written on X.」をP、「X is owned by Hibari.」をQとして、「ひばりちゃんの名前が書かれているならば全てひばりちゃんの持ち物である」を全称量化子を用いて表すと∀x(Px⇒Qx)、「ひばりちゃんの名前が書かれているならばひばりちゃんの持ち物である場合がある」を存在量化子を用いて表すと∃x(Px⇒Qx)となる。

トリプレッツと様相論理
『その可能性はすでに考えた』でお馴染みの上苙丞が登場。足跡のトリックはミステリーとして一級品。ビジュアルで一撃でノックアウトされる。自分で歩く様子を考えれば上苙丞の推理は明らかに間違いって分かるのに気付けないんだよなあ。傑作短編。

ミステリーとして鮮やかな分、記号論理学の方は正直あってもなくてもいいというか、シークエント計算をするまでもなく、「イリナちゃんは確実に中にいる(□P)」というのと「イリナちゃんは中にいないかもしれない(◇¬P)」は矛盾でもなんでもないのが分かる。

恋と禁忌の…?
連作短編の終章。瑛彦が硯に恋していることを論理的に証明するのかと思いきやそんなことはなかった。記号論理学はあんまり関係がないがミステリーとしてはよくまとまっていたと思う。

恋と禁忌の述語論理 (講談社文庫)

恋と禁忌の述語論理 (講談社文庫)

雪山の洋館での殺人。犯人は双子のどちらか。なのに何れが犯人でも矛盾。この不可解な事件を奇蹟の実在を信じる探偵・上苙丞が見事解決―と思いきや、天才美人学者・硯は、その推理を「数理論理学」による検証でひっくり返す!!他にも個性豊かな名探偵たちが続々登場。名探偵を脅かす推理の検証者、誕生!

*1:『星を継ぐもの』とか面白いですよね